「戦いに勝ち目はない。然し、戦わねばならない。せめて可能な限りの打撃を与えて敵の戦意を挫き、戦争終結のきっかけを作らなければならない」第一航空艦隊司令長官杉浦中将は第二十六航空戦隊司令官矢代少将に向ってこういった。その時、日本軍はすでに、マリアナ沖海戦惨敗とサイパン島の玉砕によって、西太平洋の制海権を完全に失っていた。そしてまた米第七艦隊は全力をあげて、ルソン島レイテ湾に殺到していた。海軍大尉宗方が、辺見中佐より第一次特別攻撃隊搭乗員の人選を命じられたのは、南方海戦の飛行基地においてであった。宗方は即座に志願し、他の志願兵を募った。隊員のほとんどが特攻隊を志願した。その朝、特攻機は次々に発進していった。その中の一機には、矢代少将が乗っていた。少将は、自らの命を投げうつことによって、戦局を収拾したいと思ったからであった。しかし編隊は、敵機動部隊の上空に達することなく、数倍のグラマン機に遭遇し、次々と撃墜された。宗方は負傷し、ただ一機基地に帰還した。戦局は日ましに敗戦の一途をたどり、硫黄島は玉砕した。昭和二十年三月十九日、沖縄に米軍の上陸が開始された。神風特別攻撃隊の成功率は十三%にすぎず、六十七%は敵戦闘機によって撃墜されていた。この確率を上げるために、特攻隊を護衛するための直掩隊を編成することに決め、宗方を指揮官に命じた。宗方が九州鹿屋に赴任して数日後、矢代中尉も特別攻撃隊菊水隊指揮官として着任した。特攻機二十四機、直掩機十二機。これが鹿屋基地に残った最後の可動全機であった。八時三十分、全機は発進した。奄美大島上でグラマンと遭遇してから程なく、洋上に浮ぶ敵機動隊を発見した機は、次々に突っこんでいった。八月十五日、日本は破れ、戦争は終った。その夕方、沈みゆく太陽を追うように、宗方の乗った零戦一機が飛び立っていった。そしてやがて雲の中に消えた。