昭和46年12月。本土復帰を翌年に控えた沖縄では、本土系暴力団の沖縄進出に対抗すべく、大城(大城朝光理事長)派と、対立関係にある国頭(国頭正剛理事長)派が互いに手を結び、「沖縄連合琉盛会」を結成した。だが、外部に向っては、「琉盛会」は一致団結したものの、その内部、国頭派系内部で紛争が持ち上がった。ことの起こりは、三年前。沖縄やくざの組織統一を計るため、対立する一派を襲撃した時、国頭とは兄弟分の中里英雄理事一派が行動隊をつとめ、中里は逮捕された。その中里派に対して、中里の服役中も出所後も、国頭派の面倒見は悪かった。このため中里は配下三〇名を率いて、国頭派を脱会したのだが、国頭派、特に理事の石川隆信は、この脱会に中里派数名に対して私刑を加えたのである。ここから、両派の血みどろな抗争が始まった。私刑事件に逆上した中里は、国頭および石川の殺害を決意する。その直後、国頭は中里に和解を申し出たが、時すでに遅かった。キャバレー、ユニバースで国頭が中里の若衆・嘉手刈宏と儀間二郎に、至近距離からS&W38口径回転式拳銃で、頭部に二発の銃弾を撃ち込まれたのである。国頭派の実力者、石川は報復のため、二十数名からなる特別行動隊を編成して、即座に中里派数名を射殺した。この報復に怒り狂った中里は、石川の命をとるべく具志川、嘉手刈を引き連れて石川の自宅を襲撃、カービン銃で石川を射殺する。この事件で国頭派は壊滅し、「琉盛会」は大城派の大城朝光がただ一人の理事長となった。だが、その大城は着々と本土系暴力団と手を結ぶ手はずを整えていたのである。自分一人が踊らされていたことを知った中里は、数名の若衆と共に警察の捜査網をかいくぐり、そのほこ先を大城に向けた。数人のボディガードの見守るなかで、大城は日課の朝の散歩中、儀間二郎によって射殺される。そして大城理事長亡きいま、大城派の影の実力者、翁長信康理事は、那覇市の高級ホテルで関西広域暴力団旭会の海津組組長と会合をしていた。中里英雄は、自らの最後の敵である翁長と海津の命を狙うべく海上で釣を楽しむ両名を襲ったのである。中里一派数名と翁長一派・海津組の連合隊の間に、沖縄はじまって以来の一大銃撃戦がここに展開するのだった。