あらすじ - 重臣と青年将校 陆海军流血史(1958)あらすじ不况に喘ぐ日本にとって満州は経済・军事両面の生命线と考えた田中义一首相は、満州に対し积极外交を进めていたが、张作霖の排日行动によって难航を极めていた。この田中外交を软弱と见た陆军の急进将校たちは関东军の河本大佐をして张作霖を爆死させ満州の一挙占领を企てたが参谋长斎藤少将に妨げられた。张作霖爆死事件で内外の反対を受けた田中内阁は政権を放弃、代って内阁を组织した浜口雄幸は、中国との友好外交、军缩政策を强行したため急进将校、右翼思想家の反感を买い、东京駅で狙撃された。昭和五年のことである。ところが、この机に乗じ桥本欣五郎中佐と右翼思想家・大川周明は、満州占领と军政府树立を计り、陆军次官杉山元を通じ陆相宇垣一成へその具体案を提示、决起を要望した。が、宇垣陆相はこれを退け桥本中佐以下を満州や地方师団に転属させた。満州に転属を命ぜられた桥本中佐は、所期の目的完遂のため河本参谋に関东军の协力を要请かくて関东军は昭和六年九月、政府の不拡大方针を无视して柳条沟に支那军と戦火を交え、戦いは満州全土に拡がった。桥本中佐は、さらに内地へ戻り、今度は国内改造を目ざして海军の青年将校と结び荒木中将の担ぎ出しにかかった。しかし计画の中止を命ぜられ、彼自らも宪兵队に逮捕された。この世にいう十月事件は未遂に终ったが、関东军は満州の占领を终え、戦火は上海へと移った。しかし満州の确保で解决されるべき不况はさらに深刻化し农村は疲弊、一方では财阀、政治家が満州へと利権を求めて行った。こうした情势に愤激した海军青年将校は昭和七年五月一五日、牧野内大臣、犬养首相らを袭撃した。この海军侧の决起は陆军の若手将校を刺激、相沢中佐が永田军务局长を袭撃するという事件が起った。そしてこれを契机に昭和十一年二月二六日、安藤大尉ら陆军若手将校による决起部队の冈田首相、高桥蔵相、铃木侍従长、渡辺教育総监、斎藤内府袭撃事件が起った。决起部队には原队复帰の勧告が下ったが、安藤大尉らは、これに反対したため遂に反乱军の汚名を着せられ诏勅の涣発となった。“勅命下る、军旗に手向うな"--决起部队は呆然として原队に复帰したが安藤大尉ら五人の首谋者は铳杀刑に処せられた。“国民よだまされるな、军部を信用するな"この绝叫を最后に安藤大尉は死んでいったが、强力な実権を握った军首脳部は、支那事変を诱発、太平洋戦争から败戦へと进んだ。